岡大紙をめぐる画家とのやりとりをまとめた貼り混ぜ屏風(福井県立美術館提供)

岡大紙をめぐる画家とのやりとりをまとめた貼り混ぜ屏風(福井県立美術館提供)

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越前和紙職人が挑んだ美術紙開発 岩野平三郎の一途な姿に迫る

福井新聞(2016年5月11日)

 明治・大正初期までは絹の布に描かれていた日本画。越前和紙職人の初代岩野平三郎(1878~1960年)が美術紙の開発に挑み、2代目(1901~74年)、3代目(1930~2016年)が発展させたことで、現在では9割以上が和紙に描かれるまでになった。1月に3代目が亡くなり、遺族から書簡や絵など資料1150点が福井市の県立美術館へ寄贈された。うち900点を占める書簡をひもとくと、横山大観ら画壇の実力者の助言に耳を傾け、理想の紙を一途に求めた初代平三郎の姿が克明に浮かび上がってくる。

 初代平三郎は学者の勧めで1915年ごろ美術紙の開発に着手。大観や川合玉堂、小杉放庵ら著名な画家に見本紙を送り、意見を基に改良を重ねてきた。絹の裏箔(はく)をヒントに金粉を挟んですいた「金潜紙(きんせんし)」や、地域の名を冠した「大瀧紙(おおたきし)」「大徳紙(だいとくし)」を次々と完成。絹にも劣らない品質を備えた和紙は23年、歴史画の大家、安田靫彦(ゆきひこ)の画論で「紙本の妙味は到底絹本に求むべからず」と激賞された。

 このとき、大観から長さ40メートルの水墨絵巻物「生々流転」に使う和紙の注文が舞い込む。何度も手紙をやりとりし、平三郎は試行錯誤を重ねて200枚をすき上げた。

 しかし画家にとって、なじみのない画材だった紙への転換は容易ではなかった。5カ月後、大観から「筆と一致不仕 試筆約一ケ月余りして途中絹本と変更」と和紙断念をわびる手紙が届く。関東大震災の義援絵画用の画紙を贈った冨田渓仙からも「紙に絵を描き世間ニ通用する人ハ僅少数に候」と退けられた。

 この経験がバネになった。平三郎は学者の助言を得て、奈良時代にすかれた麻を原料とした「麻紙(まし)」再現に没頭。26年に完成すると大きな評判を呼んだ。小杉放庵からは「麻紙の放庵か放アンの麻紙かとまことに毎年離れぬ仲に候」と理想の紙を得た喜びがつづられた手紙を受け取っている。

 さらに大観の求めに応じ、製紙所に巨大なコンクリート槽を設け、2代目とともに世界最大の5・4メートル四方、重さ12キロの継ぎ目のない一枚和紙「岡大紙(おかだいし)」をすき上げる。難しいと思っていた大観は手紙に「非常ニ驚喜」と表現。下村観山とともに早大図書館の壁画「明暗」を完成させた。

 大観の推薦もあり、28年には昭和天皇即位の儀式で用いられた「悠紀(ゆき)・主基(すき)地方風俗歌屏風(びょうぶ)」の料紙を任された平三郎。宮家のお墨付きと世界初の称号を得た越前和紙は、画壇で急速に広まっていく。同館の佐々木美帆学芸員は「新しい表現を求めた日本画の巨匠たちの思いに平三郎が応え、素晴らしい紙を生みだした。今回寄贈された資料からは、その交流が一望できる」と話している。

 平三郎から和紙の提供を受けた画家は、その礼に試筆した作品を贈る物々交換を行っていた。20日から始まる県立美術館の新収蔵品展では、書簡約50点とともに、大観の「朝陽(ちょうよう)」、放庵の「秋渓」、玉堂の「御屏風絵」などの日本画25点も展示する。6月19日まで。

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