大谷吉継の実像に迫る書を執筆した外岡館長=9月28日、敦賀市立博物館

大谷吉継の実像に迫る書を執筆した外岡館長=9月28日、敦賀市立博物館

福井県 敦賀・若狭

大谷吉継 実像に迫る 外岡さん(敦賀市立博物館長)歴史書発刊

福井新聞(2016年9月29日)

 敦賀城主大谷吉継について、福井県敦賀市立博物館の外岡慎一郎館長(61)がまとめた歴史書「実像に迫る 大谷吉継」が発刊された。出生を巡る謎、病との共生、関ケ原の戦い、敦賀城などをテーマにこれまで知られていなかった吉継の姿に迫っている。(薮内弘昌)

 外岡館長は15年以上にわたって吉継研究に取り組んでいる第一人者。書籍では吉継の書状の原文や現代語訳を掲載し、写真をふんだんに使用。専門家の視点から史実に基づいた検証を加え、入門者にも分かりやすくまとめた。

 出生について、母親は豊臣秀吉の正室北政所の侍女で東殿と記述した。しかし、父親については諸説あるとし、残されている家系図や逸話といった史料、主従関係など当時の状況から、詳細に検討を重ねている。

 秀吉の小田原城攻めで吉継が担った役割のほか、朝鮮出兵での任務や撤退の際に武将を説得したことにも触れ、「『弁舌よき人』と評される言葉の力が発揮されただろう」と記した。

 病気については、1594年に草津温泉にいた記録から、深刻な病の進行を感じていたようだと推測。関ケ原合戦図屏風(びょうぶ)の頭巾をかぶった姿も掲載し、「若年から発症していたとすれば十数年、病と共生していたことになる」とした。

 秀吉の死後は、徳川家康打倒のために石田三成から協力を依頼されたことや、越前国内に侵攻した前田利長軍を撤退させて関ケ原の戦いに臨んだ経緯についてまとめた。

 最終のエピローグの中で、敦賀港について「吉継が秀吉から与えられたミッションは湊の機能を高度化し、物流供給基地として機能させることであった」とした上で「敦賀城は、城とはいえ戦争に備えた要塞(ようさい)というより、行政機能を集めた役所と考えた方が実像に近いようだ」と指摘した。

 外岡館長は「吉継は盟友石田三成との義から関ケ原で敗れ、自刃したとされている。このことは良く知られているが、評伝はあまりなかった人物。この本を基に研究がさらに進むことを期待したい」と話している。

 書籍は、戎光祥出版の「実像に迫る」シリーズの第2弾。第1弾の「真田信繁」と同時発刊となった。A5判93ページのフルカラー。2500部発刊した。1500円(税抜き)。

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