加賀藩の武士、佐藤兵部が松本藩士に宛てて書いた手紙。指で示した部分には「真田丸」の記述がある

加賀藩の武士、佐藤兵部が松本藩士に宛てて書いた手紙。指で示した部分には「真田丸」の記述がある

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「真田丸」での武功執着 前田勢の武士が手紙、松本で発見

信濃毎日新聞(2018年4月3日)

 1614(慶長19)年と15(同20)年の大坂の陣で徳川勢に付いて戦った武士が自身の武功を書き連ねた手紙が、宛先の武士の家系に当たる松本市の個人宅に保管されていたことが2日までに分かった。豊臣勢で活躍した上田市ゆかりの真田信繁(幸村)が築いた出城「真田丸」を巡る攻防の様子などが記されている。戦国時代最後の戦いとなった大坂の陣の終結から25年後に書かれたとみられ、専門家は、平和な時代になってもかつての戦場での手柄に執着する武士の心情が読み取れる史料として注目している。

 手紙は、縦16センチで横が3メートル47センチに及ぶ。徳川勢の加賀(現在の石川県)の前田家に仕えていたとみられる武士の佐藤兵部が、同じく大坂の陣に参戦した徳川家康の六男・松平忠輝の元家臣で、後に松本藩士となった古野(こや)与五右衛門に宛てて書いている。

 大坂の陣に詳しい大阪城天守閣(大阪市)研究副主幹の跡部信さん(50)は手紙について、2人の関係は不明だが、佐藤が戦功評価への不満から加賀藩を去った経緯などを、細かく古野に知らせているとする。文面から、大坂の陣から25年後の1640(寛永17)年の手紙と推定されるという。

 大坂冬の陣の真田丸での攻防では、佐藤のいた前田勢は大きな損害を受けたとされる。その中で、手紙には「中納言殿於先手ニ、真田丸着口(つけぐち)無比類仕合(しあわせ)」とあり、佐藤が前田勢の先頭に立ち真田丸での戦いで抜きんでた働きをしたと書きつづっている。

 真田丸が取り壊された後の夏の陣でも、真田丸跡地北側の「玉造口」での戦いで二段構えの敵の前一段を崩したり、城下町で味方が尻込みする中で先陣を切ったりしたことなどを伝えている。

 ただ、加賀藩では、佐藤の働きを評価すると、戦いを傍観していた者の面目がつぶれるとの理由で一部しか評価されなかったと主張。藩主前田利常にも評価されることはなかったと記している。

 佐藤の悔しさが生々しく伝わる内容で、跡部さんは「大坂の陣から25年もたつのに佐藤が自身の評価に強いこだわりを抱いている点が興味深い」と話す。真田丸の激戦は当時から語り草となっており、佐藤がアピールしたい部分だったともみる。手紙の長さにも着目し、「古野に分かってほしかったのか、思いの丈があふれている」とする。

 古野氏の家系に当たる所有者から頼まれて手紙を読んだ郷土史家で、松本古文書研究会会長の横田国政さん(89)=松本市=は「戦国から太平の時代への過渡期にあって、武功で身を立てられなくなった一人の武士の身の振り方、人間くささがまざまざと伝わってくる」と話している。

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