道満丸事件を検証する大嶋要三会長(中央)ら上田史談会メンバー=南魚沼市坂戸

道満丸事件を検証する大嶋要三会長(中央)ら上田史談会メンバー=南魚沼市坂戸

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道満丸は生きていた? 御館の乱をめぐり新説

新潟日報(2015年12月19日)

 南魚沼市の郷土史家グループ「上田史談会」は、上杉謙信の後継をめぐり養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、景勝側に殺されたとされる景虎の子・道満丸と元関東管領上杉憲政が生存していた可能性が高いとする研究をまとめた。新潟市出身の作家・故火坂雅志さんの小説「天地人」が架け橋となり、憲政の子孫とされる男性と面談。生存説に手応えを得た。来年の会報に研究成果を掲載する予定だ。

 2人の殺害は「道満丸事件」と呼ばれる。1579(天正7)年、劣勢濃厚となった景虎が身を寄せていた御館の城主・上杉憲政が、景虎の9歳の息子・道満丸を人質とする和議を景勝に申し立て、受け入れられた。憲政は道満丸を伴い引き渡しの場へ向かったが、景勝側の武将に2人とも殺されたとされる。

 通説に一石が投じられたは2004年。史談会に「道満丸の子孫」という兵庫県在住の男性から連絡があった。大嶋要三会長(82)が親交のあった火坂さんに生存説を伝えたところ、「天地人」の中で取り上げられた。

 NHK大河ドラマで「天地人」が放映された09年、事態はさらに動いた。道満丸生存説を知った青森県在住の男性から「自分は上杉憲政の子孫ではないか」と史談会に手紙が届いたのだ。史談会は「道満丸に続き憲政も生きていたとは。真相追求は自分たちの宿題」と、調査に本腰を入れた。

 上杉古文書などを読み解き、和議は成立したのに2人が殺されたことをいぶかる記述があったほか、殺害を実行した武将の家の「書上(かきあげ)」に「景勝の特命だった」とあえて記されていることなどを突き止めた。

 ことし8月には、史談会のメンバー8人が青森県十和田市の男性を訪ねた。男性はしきりに「『ごち』とは何か」と尋ねた。「すぐに御館があった上越の五智とわかった」と大嶋会長は振り返る。男性の家の口伝によると、憲政は四男とともに五智から海路、青森の今別に逃れたという。

 一連の調査によって、史談会は2人は実際には殺害されず、周到な計画の下、秘密裏に逃がされた可能性が高いと判断した。

 大嶋会長は「青森へ行って2人の生存の可能性が強まった。道満丸事件は景勝の非情さが際立つ悲劇だが、生存していたとすれば、義と愛を貫いた景勝の人物像とも合致し、ほっとしている。救出劇はドラマチックだったに違いない」と感慨深そうに話した。

<道満丸生存説> 津南町出身で兵庫県在住の男性が、家に伝わる「先祖は道満丸」という説を調査。上田史談会は2005年の会報「魚沼」に男性がまとめた調査記録を掲載した。男性の調査によると、道満丸は津南町と隣接する信濃・志久見(現・長野県栄村)の豪族・市川新六郎にかくまわれ、子孫が今に続いているという。市川氏は上杉景勝の親族にあたる。

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