第1次上田合戦で、上田城一帯の戦闘経過を伝える「信州上田初之真田陣絵図」。城の南側に伏兵への合図に使った旗が描かれている

第1次上田合戦で、上田城一帯の戦闘経過を伝える「信州上田初之真田陣絵図」。城の南側に伏兵への合図に使った旗が描かれている

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第1次上田合戦、新たな絵図発見 真田勢の戦法詳細に

信濃毎日新聞(2016年8月19日)

 1585(天正13)年に戦国武将真田昌幸が徳川勢を破った「第1次上田合戦」で、徳川勢を上田城一帯で迎え撃つ真田勢の配置や戦法が記された絵図が新たに見つかった。上智大(東京都)准教授の中沢克昭さん(50)=日本中世史、長野市出身=が昨年11月、古書類のオークションで入手し、分析してきた。同合戦の詳細を伝える史料は少なく、中沢さんは「合戦の具体像が描かれ、真田の兵の使い方が分かる」としている。

 「信州上田初之(はじめの)真田陣絵図」と題し、縦38センチ、横56センチ。戦闘の経過を説明する「註記(ちゅうき)」が数多く書き込まれている。誤写らしき文字が含まれることから、絵図には原本が存在するとみられる。

 絵図では、東西に「チクマ川」(千曲川)が流れ、川の南側に徳川勢の陣、北に上田城がある。千曲川から2本の道が上田城に向かっており、大久保七郎右衛門(忠世(ただよ))、平岩主計(かずえ)(親吉(ちかよし))らの徳川勢が二手に分かれて攻め上ったことが記されている。

 中沢さんは真田勢の配置と動きに注目する。絵図によると、昌幸は上田城の東の砥石(といし)城とみられる「取出」(砦(とりで))、上田城の東の「芦野」、南東の「薮(やぶ)」に軍勢を置いた。芦野と薮には「地下人(じげにん)」(領民)を配置した。

 真田勢は「三挺ノ鉄炮(鉄砲)」の音で敵の動きを知らせ、徳川勢が城まで押し寄せてもすぐには出撃せず、引こうとすると軍勢を出して「アイシロウ」(あしらう、応戦する)行動を繰り返した。「日ヲ晩サシメン」との記述から、真田勢が「日没まで時間稼ぎをした」(中沢さん)とみられる。

 夕暮れが近づき、合図の旗が振られるのを見た昌幸の長男、真田信幸(信之)は砦を出る。芦野の地下人は「紙小旗」を振り上げ、「トキ(鬨)ノ声」で敵を脅かし、薮の中の伏兵も声を上げ徳川勢に接近。慌てて撤退しようとする徳川勢に、信幸や上田城の軍勢が襲いかかり、川へ追い詰めた。絵図には、鉄炮の位置を示す三つの丸印、合図に使った3本の旗が上田城南側の「宿城(しゅくじょう)」に描かれている。

 中沢さんは絵図が「江戸時代初期に描かれた」とみる。まず、信幸の名を「真田源五郎(源三郎の誤記か)、今ノ伊豆守之事」と記しており、信幸が伊豆守だった1594〜1658年に限定できる。さらに、絵図の題名に「初之(はじめの)真田陣」とあり、1600(慶長5)年の第2次上田合戦が認識されている。ここから1600年以降、58年までの間と推定される。

 真田氏の歴史に詳しい元上田市立博物館長の寺島隆史さん(65)=東御市=は、この絵図を「具体的な戦闘経過を記した貴重な史料」と評価。「内容が正確とは限らないが、描かれた時代が古く、合戦体験者の情報を基に描いた可能性が高いのではないか」としている。

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