大坂夏の陣について記された手紙。旧松本藩士の家系の家に残されていた

大坂夏の陣について記された手紙。旧松本藩士の家系の家に残されていた

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大坂夏の陣を記した新史料、松本で発見 落城後も緊迫

信濃毎日新聞(2017年4月23日)

 1615(慶長20)年5月の大坂夏の陣に徳川勢として参加した武士が戦いについて記した手紙が、宛先の武士の家系に当たる松本市内の個人宅に残されていたことが22日、分かった。徳川勢の攻勢によって大坂城の天守閣が焼け落ちて大勢が決まった翌日も、豊臣勢が激しく抵抗し、緊迫した様子を伝えている。専門家によると、天守閣が落ちた後の戦いの状況が分かる史料は珍しいという。

 手紙は縦31・2センチ、横39・5センチの紙を二つ折りにした5枚つづり。宛名は、徳川家康の六男・松平忠輝(1592〜1683年)の元家臣で松本藩士となっていた古野(こや)与五右衛門。忠輝は越後国高田藩主として現在の新潟県上越市や北信地方を治め、夏の陣にも参戦していた。

 差出人は岡部十左衛門。岸和田藩(現大阪府岸和田市)に仕えたとされるが、文面から、夏の陣の頃は忠輝の家臣だったと推定できる。手紙は、古野から戦について尋ねられたのに対し、岡部がしたためた返事とみられる。

 大阪城天守閣(大阪市)などによると、夏の陣で忠輝は義父の仙台藩主・伊達政宗の後方に布陣。上田市ゆかりの武将真田信繁(幸村)と対峙(たいじ)した。大坂城は5月7日夕に天守閣に火の手が上がり、夜のうちに焼け落ちた。

 今回の手紙は翌8日朝について、陣場を出た岡部ら7、8人が本丸南側正門の桜門の付近から攻め入ろうとしたが、「敵だ」と言って大勢の徳川勢が逃げてきたため進めなくなったと記載。騎馬武者も逃げ帰ってきた―などとしている。県立歴史館の村石正行専門主事(中世史)は「非常に混乱し、統制が取れていない様子がよく分かる」と話す。豊臣秀頼と母淀殿は本丸北側の曲輪(くるわ)「山里丸」のやぐらに潜み、8日昼ごろに自害した。

 手紙の日付は「2月晦日(みそか)」。年は書かれていないが、古野は1645(正保2)年に亡くなっており、それ以前に書かれたとみられる。

 昨年10月、郷土史家で松本古文書研究会会長の横田国政さん(88)=松本市=が、古野氏の家系に当たる所有者から解読を頼まれ、松本城管理事務所(松本市)の後藤芳孝研究専門員(68)と読み解いた。横田さんは「全国的に見ても大坂の陣の研究の参考になる史料ではないか」と話し、今回の手紙を基に研究が進むことを期待している。

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