展示中の甲冑(かっちゅう)を見る降幡学芸員。一番大きな左上は、背中を覆うための物と考えられている=3日、長野市の真田宝物館

展示中の甲冑(かっちゅう)を見る降幡学芸員。一番大きな左上は、背中を覆うための物と考えられている=3日、長野市の真田宝物館

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「真田の赤備え」甲冑初確認 東御の民家保存、長野で公開

信濃毎日新聞(2017年3月4日)

 戦国時代の真田家に関連する赤い甲冑(かっちゅう)が、真田の家系といわれる東御市の個人宅で見つかった。真田家は甲冑や旗差し物を赤で統一する「赤備(あかぞな)え」で知られ、文献に記録されているが、戦国時代ごろに作られた赤い甲冑が確認されたのは初めて。真田宝物館(長野市松代町松代)で4月3日まで開催中の特別展で公開している。

 甲冑は、真田家につながる海野一族の真田右馬允(うまのすけ)の子孫とされる深井家に伝わる。傷みが激しいが赤色がよく残り、きり箱に収められていた。鉄製で、胸や背中にあてたり、喉を覆ったりした部分という。真田宝物館の降幡浩樹学芸員が昨年末、深井家を訪ねて確認した。1934(昭和9)年の箱書きには「海野小太郎御誕生の祝いの品として、京都から下賜(かし)され、児子(子ども用)の具足一領」とある。

 同館によると、形状に戦国から江戸初期の特徴が見られ、大きさは小さめ。海野氏は代々小太郎を名乗るため、人物は特定できていない。

 真田の赤備えは、大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)(大阪城天守閣所蔵)で、真田信繁(幸村)隊のいでたちとして描かれていることで知られる。信繁の兄で松代藩真田家初代藩主信之が家臣に宛てた書状には「いつものこ(ご)とくあか武者たるへ(べ)く」と記され、大坂の陣を巡る複数の文献にも赤備えと読み取れる記述があるが、実際の甲冑は確認されていなかった。

 右馬允は信繁の父昌幸のいとことされ、その家系は江戸時代に小諸藩や上田藩を治め、但馬国の出石(いずし)藩(現兵庫県豊岡市)に移った仙石氏に仕えたが、深井家は小県郡に残り帰農した系統の子孫とみられるという。

 大阪城天守閣(大阪市)の北川央(ひろし)館長も「真田ゆかりの赤い甲冑が現存するとは聞いたことがない」とする。夏の陣図屏風や文献史料から、大坂の陣の信繁隊が赤備えだったことは「動かせない事実」とした上で、「信繁と別系統に伝わった今回の甲冑は、真田はいつから赤備えだったかという問題提起になり、貴重。今後の研究を待ちたい」と話した。

 降幡学芸員は「識者に注目して見てもらえれば、分かってくることがあるのではないか」と期待していた。

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