善光寺(長野市)の五重塔の設計図とみられる絵図が市内の民家で見つかり、28日に大本願に寄贈されることになった。善光寺には鎌倉時代に五重塔があったが焼失。江戸時代に再建が計画されたものの幕府が許可せず実現しなかった。その際の設計図は大勧進にあり、複数あることが明らかになったのは初めて。大本願は4月からの御開帳期間中に一般公開する予定だ。
絵図は縦約270センチ、幅約90センチで「信州善光寺五重塔貳拾分一繪圖(20分の1絵図)」とあり、江戸時代の寛政8(1796)年9月吉日、立川(たてかわ)内匠(たくみ)冨棟(とみむね)と記されている。塔のサイズや書かれている字、装飾など、大勧進にある設計図とほぼ同様だ。絵図を見た長野郷土史研究会の小林一郎会長(64)=長野市=は「手描きなので細部は違っているかもしれないが、同じ物とみられる。大勧進にある設計図が唯一確認されていて、複数あったことが初めて分かった」と話す。
塔の再建は、安永8(1779)年に大勧進が幕府に出願。寛政10(1798)年まで各地を巡る出開帳を行い、浄財を集めた。大勧進表大門を建立した諏訪の宮大工立川和四郎(わしろう)冨棟に依頼して、設計図が作られた。完成していれば高さ約50メートル。和四郎冨棟はこの設計図から宮大工の称号「内匠」を名乗ったという。
絵図を寄贈するのは上田市大屋の矢島みつさん(96)、長男の康夫さん(63)、みつさんのおいの塚田和美さん(64)=長野市川中島町。みつさんの実家である長野市稲里町の旧田口家にあった。田口家は松代藩に仕官していた家で、明治時代には当主が挿花(生け花)の師匠を務めていたという。後継者がなく2年前に家を取り壊した際に絵図を発見。御開帳を前に大本願への寄進を申し出た。みつさんは「なぜ実家にあったのかは分からないが、多くの方に見ていただければうれしい」と話している。
元県文化財保護審議会委員で信州伝統的建造物保存技術研究会副理事長の吉沢政己さん(61)=伊那市=によると、同じような立面図が複数作られることは珍しいものの、諏訪大社上社本宮幣拝殿、左右片拝殿の再建=天保6(1835)年=の際、諏訪郡の複数の世話役に同様の立面図を渡して寄付を募った例があるという。今回の絵図も「出開帳で、地方の世話人から要請され、何点か作られたのではないか」と推測している。