上田城跡本丸土塁跡から出土した金箔瓦の破片。左下を中心に金箔がはっきりと残っている

上田城跡本丸土塁跡から出土した金箔瓦の破片。左下を中心に金箔がはっきりと残っている

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上田城、実像迫る金箔瓦 真田昌幸時代に使用か

信濃毎日新聞(2018年3月8日)

 上田市教育委員会は7日、同市の国史跡上田城跡(上田城跡公園)の本丸土塁跡付近から金箔(きんぱく)を施した瓦の破片1個が出土したと発表した。瓦は上田城の初代城主・真田昌幸の時代に本丸の建物に使われた可能性が高い。同城跡で金箔瓦が出土したのは1927(昭和2)年の2点、91年の2点に続き、3度目で5点目。金箔瓦は天下統一した豊臣秀吉が権力の象徴として家臣の城郭に使用を許可したとされ、昌幸時代の上田城も天守閣に相当するような立派な建物があった可能性を示す発見として注目されそうだ。8日から、上田城跡公園内の市立博物館別館で一般公開する。

 出土した金箔瓦は屋根の棟の端に飾る魔よけの「鬼瓦」の一部で、三角形に近く長辺が約8センチほど。平たい面に残る金箔が肉眼ではっきり分かる。2月23〜28日に行った本丸土塁の範囲を確認する調査で27日午前に出土。4本設けたトレンチ(調査溝)のうち1本の地中約80センチから見つかった。場所は真田神社の旧社務所跡で本丸南側の崖「尼ケ淵(あまがふち)」に面している。

 調査を担当した市教委生涯学習・文化財課の和根崎剛文化財保護担当係長は「現場でぱっと見て分かるほど金箔が付いていた」と説明。市立博物館や研究者にも意見を求め、昌幸の時代の金箔瓦の可能性が高い―との結論に達したとした。金箔の状態は27年に広堀(現市営野球場)で出土した鬼瓦に匹敵する明瞭さという。

 昌幸は1583(天正11)年に上田城を築城。85年の「第1次上田合戦」と、1600(慶長5)年の関ケ原の合戦直前の「第2次上田合戦」で2度にわたり徳川勢を城を拠点に退けた。市立博物館の倉沢正幸館長は「上田城が瓦ぶきを含む立派な城郭になったのは1596年から関ケ原の合戦の間と考えられる」とし、金箔瓦もこの間の建物に使われた―との見方を示す。

 上田城は、関ケ原の合戦後、徳川方に破壊された。現在の上田城跡はその後、上田藩主となった仙石氏、松平氏が築いた城の跡。和根崎係長は「真田氏時代の上田城の具体像は見えておらず、金箔瓦がどんな建物に使われていたかは断定できないが、そのイメージの一端を垣間見ることができる発見といえる」と話す。

 市教委によると、金箔瓦は県内では、松本城(松本市)や小諸城址(じょうし)(小諸市)でも出土している。

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